谷口昌良(写真)・石田瑞穂(詩譜)展

ー空を掴め/Catch the Emptinessー

2020年11月4日(水)〜12月18日 12月25日(金)迄延長


光明の下、見る事とは、モノとはそして言葉とは。問う写人と詩人の先に空は掴めるのか。

「見るということ」
近視で乱視な私は歳で老眼もひどくなり、眼鏡をとったり外したりすることが多くなった。気がつくと裸眼で見ている世界が気持ちのよいことに気がついた。見ようとする物体は実体でなく、認識する自分も不確定なものでもある。こうして実体と認識の境界に立って眼球はさまようことになる。何を見ようとしているのか。焦点を合わせる事とは何なのか。被写体とは何なのか。自分と他者という存在根拠すらおぼつかない。空を掴めと、私は眼鏡を外して白隠のゆかりの松林に篭り写真を撮った。慈悲の光を頼りに陶酔した。まるで自己が消滅したかのように。 
今回、石田瑞穂が詩「雷曲」(詩譜)を寄せ、二人の写人と詩人が「空」を探る。

空蓮房


Photoesy―翻訳としての詩と写真

詩と写真が〝自己表現〟でないとしたら、それらはいったい何処から何者へと発現するのだろう。ならば、詩と写真を、世界と自他のあいだにおこる〈翻訳関係〉として問うことはできまいか。
「詩譜」は、連作写真「空を掴め」と協奏する詩篇「雷曲」とその英語訳が、和行書と英語筆記体により書き縒られ、不可能な原文として浮漂する。その新たな分割=分有では、接続詞「and」と「間」が一綴りになり、「o」から「チ」の樹が生えだす。偶々、近接し共振した漢字とアルファベットの音叉は、余白に潜む梵字、ハングル、ルーン文字、仏語、伊語などもうち鳴らす。
世界と自他、詩と写真も、もともとそのように潜在し、響鳴している。翻訳に起源はなく、終わりのない接近だけが到来している。

石田 瑞穂