兼子 裕代「形相」

-Appearance-
2018年6月6日~7月6日

「顔」は、神の言葉が宿る場所である - エマニュエル・レヴィナス

2010年から続けてきた歌う人のポートレート・シリーズ「APPEARANCE 」が空蓮房で展示されることとなった。
展示について思いを巡らしていると、13年前に早世した義兄、石井敏夫(フランス哲学研究者)が残したあるテキストに行き着いた。「大人のための哲学の時間」と題された講演原稿は、 普遍的な難題である「神」と「他者」について、哲学者レヴィナスの思想を引きながらも、親しみやすく解説してあり、故人の人柄と才能を思い出させてくれた。わたしにとって特に身にしみたのは、以下の文である。
『他人は現れてきたら最期、逃れようもなく私たちの心と体が反応し、応答し、目を背けられなくなる何かだ。』
『自分とは別の存在としての他人というのは、総じて、おしなべて、例外なく、神様に似ている。』
最初の言葉は、16年前アメリカに移住し、外国人として疎外と受容を繰り返し経験してきたわたしが、本シリーズの制作に至った気持ちにぴたりと重なり、2つ目の言葉は、制作過程でわたしが被写体に対して抱く驚き、もしくは畏敬にも似た感覚を代弁しているかのようだった。
生と死、そして、神について自然に思いを馳せることができる寺院というこの場所で、これら「他人の顔」の写真を観者と共有できることは、奇跡であると同時に必然であると思えてならない。

2018年3月 兼子裕代

顔は、神の言葉が宿る場所である - エマニュエル・レヴィナス
The human face is the conduit for the word of God. (Emmanuel Levinas, Interview with Anne-Catherine Benchelah)


「形態又は形相」

表情や仕草など人間の表皮が自然と表す形や現象は、縁起のフェノメノンとして必然と成している。例えそれが意識に内在する命令や意図があろうとも無かろうとも、結果として無常にも表出されている。その状況や感情や対応、又、その人物の個性、癖や歴史がその一瞬に現象として現れているのかもしれない。もう少し言い換えて「形態/カルマや宿命として現る形」と理解することもできよう。
仏教では身口意の三業という言葉がある。所作、行動、言葉、心の働きを精進せよ、と言うことであろうし、例えば念仏はその浄業(清らかに安定する方向に持っていくための行い)として解釈もできよう。いずれにしても生命体である私たちは、その命と存在と認識によって死に方の稽古をしているわけである。
こうして現る姿、形を写真にすると、自我から遠のいて他者からその裸が見られることになり、恥ずかしいながらも自我執着から解脱しようと行ずる姿を見られるようでもありつつも、ある意味では、それが本当の自分でもあるわけで、自者・他者の同一性として存在を語る起点に気づかされるであろう。
鏡に自分の顔を映し出し、これが自分かと不思議に思えば、録音機に録音された自分の声がこれ、自分の声?ともう一つの自分を再認識してみたり。自己認識だけでは世界が成立せず、あなたがいるから私がいる又逆しかりなのである。自分の目で自分を見ることはできない。日頃、私たちはとかく「自分」と言う鎧に頼りがちである。他者がいて自分が成り立っている事なぞおおよそひらめかないかもしれない。
人の姿の写真を見ることは、自分との対比や学びでもあろう。だが、その姿は心身の総合体といえども他者の心まで読み取ることはできない。ただし、それは不要でもあろう。何故ならそこにあるのは自分なのであるから。そして、死んだ経験のない自己の執着でもあろう。
写真はフィクションであり、事実や実体ではない。自分を省みる素材かもしれない。未知の自分を見出す物でもあり、感動を期待するだけの安易で勝手な鑑賞ではなく、正に本当の自分を観照するものであろう。そして行く手には崇高にも確証なき自分と出会うことになるだろう。
故に先にも書いた通り、命と存在と認識によって死に方の稽古する事が観照であり、特に人像の写真はその格好な出会いだと思う。今回はそこに重点を置きながらじっくりと観照されていただきたい。

空蓮房