森澤 ケン「意識の記憶」

Memory of Consciousness
2019年2月20日〜3月15日

「意識の記憶」

意識や感覚の源は昨日今日の話ではない。阿頼耶識の奥底乃至はそれ以前に、人間は一つの生命体として進化を遂げながら今日に至っている。至れば生命の誕生は、地球の形成と共に海からやってきたという。今日的身体の成り立ちはその進化を母体の子宮の中でその名残を見せるという。羊水は海と同じ塩分濃度で胎児はえら呼吸をするという話を聞くと、我々は、そこに浮かぶある意味で奇妙な生命体でもあろう。
そう考えてみると、日頃、この勝手な人間中心社会にあってその行動や姿に愚かさも垣間見ることもできる。かつて海から這い上がってきた者たちの群像である。
この身の意識の根底にある「何か」が、意識の誕生の因果に関わっていたとすると、我々は何処へ行くのかという問いにもつながる話にもなろうか。
意識は机上の論理でなく命の進化と共に無常に他ならないという事実はなにか刹那い。すでに備わっているものだとすれば、ゆだねることでしかないが、意識を意識しだすことは、人間の過剰な自己欲なのかもしれない。
縁起が故に我々はここに存在し、一時の命を育むだけの基体として原因の結果として在るだけかも知れない。すれば勝手や自己欲は本当につまらないものである。
細胞に立ち返る意識は無意識下にあろうとも意識される意識はもとより無であるということである。細胞の企みにも負けて無は無ということであろうし、故に意識の記憶は常に新しいのである。だが遠い過去の細胞に望郷思惟する我が身もまたここにあるということだ。意識は悔しくも儚い。しかしここに時の概念を静寂に考える作品群がある。静かに静かに。

森澤ケンは、写真家であると共に競泳選手を経て今では素潜りの漁師でもある。
彼のそういった身体感覚の修練から超越された「何か」に触れる瞬間は、例えば僧が修行から得る「何か」と似た感覚ではないかと思う。
今回は森澤ケンのその「何か」を静寂と気づきを持って観照したい。

空蓮房